昭和41年04月03日 夜の御理解



 身の改まりが第一とおっしゃるのでございますから、先ず本当の信心を頂かせて頂こうと思うたら、先ず改まる事から第一に掛からなければならぬ。本気でこの事こう言う様な事ではおかげは受けられんといいう事が分かったら、そのこういう事という、こんな事ではというその事を、第一番に改まる事を努めなければならん。もう何というても改まらなければ、改まる事から、ね、熱心にお参りする事も拝む事も、その事を先ず、願わなければならん。そこから信心は出発である。
 今日は日曜でもあるし、色々な行事も有ったし、又外部の色んな用事も私ござしましたから、一日がまぁお広前もてんやわんやでしたが、私も大変忙しい一日でした。その事のお礼を申うさして頂きよりましたら、丁度大根の根ですから、カンコロというでしょうかね干し大根の様に枯れたやつ、それでいて葉だけが生き生きとして居るところを頂いた。まぁそんな事はないんでしょうけれども、まぁ言うならば、私のある意味での信心が一つのもう根が枯れてきた。
 それがおかげを頂いて葉がこう生き生きとしてお広前の上に現われておるのだと、こういう風に私は思わせて頂いた。枯れて来たというのは心が枯れたと そういう意味じゃないと私は思うんです。まぁこれはこれで良いと言う事は無いのでございますから。今朝から 神格の事について今日ね、学生会の時でしたか頂きました様に、私共のその神様から頂いておる御信用というか、御神格というものがどの辺か分からんとしましても、まぁですから小学校なら小学校、中学校なら中学校の程度としても良いだろう。
 その中学校としてはもう枯れたと、いわゆる枯淡の味が出るとこういうですね。いうなら中学校としては、まあ段々おかげを頂いて、中学生、中学校ならこれで良い、という様なおかげを頂いて居る処に葉が生き生きとした一つの ひれいとでも言うかね、お広前が賑わうという様なおかげになってきた。これで良いという事ではない。私が高校へ行ったら、又生々しいまでに成って来ると。今まで気が付かなかった様な、改まらして頂くといったような 生々しいそれに取り組まして頂くだろう。
 これで又 信心が大学という所まで進んで行ったら又 今迄とは気が付かなかった、知らない所に改まる事が多いだろう。そういう風なことだと、私は思わせて頂いたですけれどもね。お互いがです幼稚園は幼稚園なり、小学校は小学校なり、中学校は中学校なりにですね、信心を高めていくという事は、小学校の時には、どこを改まったら良いか分からないのですからね、それが段々分かってくる。中学校になってくると、いよいよ分かってくる。高校になると、又いよいよ奥の事が分かってくる。
 という様に、いうならば中学校なら中学校という意味合いにおいて、まぁおかげを頂いて居るんじゃなかろうかと私は思う。これはまぁ十四、五年前の事でしたけれども、或時、私、神様から頂いたことがある。先ず、先ずイカを捕れとイカ先ず海に舟を出せ、イカを捕れ、ね、イカを捕れそしてそれをイカを干せと、名前が変わってスルメになる。イカということはまあ、いかんと言う事だと、先ず信心の大海に舟を乗り出させて頂いたら、先ずこれじゃいかんというそれを取れと。
 それは実に生々しくそれを改まって行く時には、干し上っていくときには、いわばスルメとイカの中間位の時には何か汚らしい様な臭いがしたり、汚かったりするかも知れませんよね。それが段々干し上がってまいりましてから、いわゆるさっき私が頂いた様に根がかんころの様に大根がもう かんころの様に干し上っている、それはスルメということですね。スルメにイカがなっていくという様なおかげを頂いた時です、そこにスルメ、噛めば噛むほどの味わいが出てくるのである。
 かんころでも、イカと同じ意味の事じゃなかろうかと思うと、もう何時迄置いても悪くならないという一つの徳なのだ。ね。それは私信心の段階というものがです,なら私が今日、私が中学校とするか、これから高校という事に又、進学させて頂いたらです、高校としてのこの改まりという又、舟を出せ、イカを釣れということになってくるだろうとこう思う。そこに又、生々しいまでの信心とも改まるといういかん所と取り組んで、そしてそれがスルメになるまで又信心を進めて行かなければならん。
 だから何時の場合だってですね、何時の場合だってだから改まりと言う事と取り組んでおかなければならないと言う事が言えるですね、先ずこれが第一番そして私はいわばイカがスルメとも全然呼び名まで変わって来る様にね、大根がかんころという様にです、全然呼び名まで変わってくる様にです、ね、そういう私はおかげが頂けれるのだという風に思うです。何といても先ずこんな事じゃいかんという所を先ず自分で気が付いたら、それに取り組んで、きついけれどもそれに取り組んで。
 それを改まっていくと言う事が信心第一歩、だからそれがスルメに成る。もういっちょんするめえというでしょう、いっちょもするめえというそのスルメに成るまでが信心辛抱、だからスルメにならして頂いた時にはです、ようこそここ迄改まりができたもんだという喜びも出来る。ようこそ何年間という勉強したもんじゃある、おかげで高校又、進学する事が出来る、ということに、言うならば、成る訳でしょう。
 そこに例えばスルメならスルメの噛めば噛むほどの味わいというか、改まりの味わいというものが分かって来る。難しいけれどもやはり改まらなければ、磨くという事は出来ません。先ず垢を落とさなければ磨くという事は出来ません。その先なんです磨くという事はね、確かにこれに取り組むという事を、「討ち取るは難しされど妙賀かな」それなんです、それを打ち切ると、取ってのかすという事は実に難しい事である。
 それはイカからスルメに成る中間なんかの時は、実にどうにもこうにも仕様がないほどに どっちつかん。イカでも食べられん、スルメでもいかん、妙な匂いがする。しかもぐちゃぐちゃの様な感じが一時 私はあのまだイカからスルメに成る過程のものを、又、見た事はないけれども、そんな生乾きはそんなもんじゃなかろうかと思うんです。そこを通り越え乗り越えたところにです、スルメの味が出て来るのです。
 「切り取るは難しされど妙賀かな」ね。そのスルメの味わいというものを一遍味合うたらです やっぱりあの信心の真の喜びというものに触れたい、妙賀に触れたい、喜びの妙に触れたい、その事を楽しんで、例えばきつい改まりもなされていく、そこに私は一段一段と神様の御信用も付いて来る。まぁ教祖の御時代で言うならばです、神格も段々向上してくる。下葉の氏子、金子大明神、金光大権現と言った様な風にです。
 自分のこれが神格とでも言うのでもあろうか と 言う様に自分の心に感じるその神格を感じられる位に成ってまいりましたらです、その改まると言う事も 又楽しい事であり、有り難い事であると言う事に成るのじゃないでしょうか。先ず信心は何と言うても、拝む事も、お参りする事も、その いかん所に取り組んで、それをスルメにしていくと言う事から先ず掛からなければ駄目。おかげを頂いて下さい。
   どうぞ。